菊池住幸 著 やわたはま峠物語 INDEX-PAGE

「笠置峠」其ノ壱

笠置峠周辺図

 笠置峠は、釜倉と宇和の岩木(岩城)に跨る標高約四百米の峰で、その連峰は西方へ御在所山、極山へと連なり、岩木観音獄に始まり、山獄の随処は奇岩群が露出し寄る人を圧し、岩野郷の名にふさわしい。昭和二十年、笠置トンネルが抜け宇和島−八幡浜間に鉄道開通をみると、次第に峠を越すものはなくなった。今は岩木の安養寺の脇より峠近くまで、車で登る事ができる。

 岩木は、往古は伊波岐(いわき)と書き、小原、郷内を合わし笠置村と呼び、さらに昭和四年、山田村と合併し、石城村となった。

 この集落の中ほど、笠置山からたれたような裾の小さな岡に三瓶神社がある。祭神は、阿蘇津彦命(アソツヒコノミコト)健磐龍命、阿蘇姫命で、三瓶町三瓶宮より勧請したものである。ご神体は三つの瓶で、四年に一度閏年の歳に瓶を包む袋を取り変え新調する。五十年に一度の大祭には、三つの瓶のご神体は、神輿に乗せられ山を越え三瓶に帰る。船に乗せられた三体の神輿は港を出て周木、下泊まで海上を勇壮に練り廻り、最後は三瓶沖の高島まで向う。昭和六十一年が次の大祭の歳に当る。

 この三瓶神社を中心に大祭、神谷、地中などの小字がある。

 笠置峠の登山口にある安養寺は、参勤交代の時、休憩所にあたられたという口碑があり、その為か、他に抜戸、上げ屋、下屋の地名もある。海が地化ると当然陸路を選び、行列の一行は笠置峠を越えた事であろう。峠の登口、安養寺の裏山は数基の古墳が発掘されていて、石棺に使われた羊羹の形をした石は総て緑泥片岩である。この緑泥片岩、宇和地方の産ではなく、八幡浜、西宇和地方より運ばれてきたものだと伝えられる。ならば八幡浜、宇和を結ぶ笠置峠は太古、石棺の石材を運ぶ事より拓かれた事になる。安養寺の石段に使われている石は、石棺の石である。その為ではないが、寺の山号を霊岩山という。

 寺から見下す宇和平野は美しく、正面はるか前方には法華津峠の峠が青くかすむ。

 豊じような田園は、明治中期より開墾され今に到った。それ以前は、岩木駅辺まで茅の生い茂る沼地であったと伝えられる。

 そして、岩木勝光寺の過去帳が物語る。今から、二百年程前、この地方を襲った未曾有の大飢饉の為、岩木地方の里人は大方死に絶え、新しく九州地方より菊池姓を名乗る一族が移り住んだ。今もこの地方には、その渡来者の祖を河内院様とあがめ、年に一度一族の菊池祭りが伝承されている。

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「笠置峠」其ノ弐

 田園を見下し登る細い峠道は険しいが、幾百年にわたり人が踏み続けた山道は、人の臭いがある。

 頂上近くの道下に十基程の小さな墓石が、半ば土に埋もれ思い思いの方向に傾き点在している。これは、峠で行き倒れとなった哀れな遍路を葬った遍路墓である。そして、峠の尾根道は、別れ道となっている。右に下ると釜倉へ、左の道は笠置トンネル口、神谷へ下る。

 峠の三叉路には、一基の地蔵が安置されている。地蔵は、今から百八十九年前の寛政六年、釜倉の和気吉蔵が願主となり建立したもので、雲松寺、禅興寺の和尚が開眼供養をした事を刻んである。また台座は、道しるべを兼ね、明石ゃ出石寺の道のり方向を示している。この地蔵は、三代目なのか、台座の脇に古い欠けた二体の地蔵がある。

 双岩八景の絵葉書で見る、かつて峠一帯を覆っていた名物笠置松は、枯れて今はないが、幹数メートルを土に留めて立つ数本の巨大な松の残骸今も松籟を偲ぶ事は出来る。

 かつて峠には、二軒の茶屋があった。いつの頃か賊に侵入され、一軒は峠を去った。しかし、昭和二十年鉄道が開通したものの経済的理由から峠を利用する者が多かった。最後まで峠に茶屋を営んでいた人は、岩木の立花嶋吉、イシの老夫婦であった。節分に豆とともに欠かせない、鬼の棒と呼んだタラの木は、春になると笠置山に群生する。嶋吉氏がその芽を摘み、焼いてみそを添えて出す味は格別で、峠の名物の一つであった。やがて夫婦は、一人の往来もなくなった峠に見切りをつけ、岩木に下り雑貨屋を開いた。

 現在卯之町に出られている孫の立花さんの話によると、祖母イシさんは元気で、八十四歳まで生きた。しかし、旦夕迫った床の中で、うわ言のように「私の体の半分下は笠置で半分上は釜倉じゃ」と、何度も何度もつぶやきながら息を引きとったという。笠置峠の茶屋に嫁いで六十年、峠に生き、峠を守り、峠をこよなく愛したイシさんは、また峠と共に死んだといえるであろう。めぐり来る峠の四季、移り行く時代と共に、登りては去り去りてはまた登り来て、茶屋に休んだ多くの人々の群像を追い、イシさんの魂は今も笠置の峠に眠る。

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「笠置峠」其ノ参

 文化文政の頃、宇和島城下に剣術指南役を務める長弥平太という人物がいた。

 彼は三崎の生まれで、親は大工にさせようと棟梁に預けたが、武士に憧れる彼は、大工の仕事をよそに毎日暇さえあれば錐で蝿をさす練習をしていた。八幡浜の庄屋、浅井万兵衛宅に仕事中、万兵衛にそれを見とがめられ、侍になりたい事を告げた。すると、万兵衛は「お前のような怠け者が武士になれるのか。万一、お前が侍になれたら、私の首をやろう」となじった。弥平太は不適にも、「屹度そのお首頂戴に上がりましよう」といい残し、棟梁の家を飛び出した。そして、青雲の志を抱き、笠置峠を後に宇和島城下へ向かった。

 十年後、笠置峠を越えて帰って来た弥平太は、立派な侍になっていた。城下で剣術修行に励み、遂に師範の肩書を得、士分の株を買い、名実共に本物の武士となったのである。古人刻苦光明必盛大也、漁師の子悴から侍になるのは並大抵の苦労ではなかった事であろう。当時、町人百姓でも武士の株(権利)を買えば、侍になる事ができた。あの勝海舟の家も株を買い御家人となった家柄である。

 弥平太の目差す相手は、大庄屋浅井万兵衛。仲間二人を従え堂々と浅井家へ乗り込み「長弥平太、約束により御首頂戴に参上!」と万兵衛に迫った。流石の万兵衛もこれには困り三方に金を盛り、平身低頭し謝ったという。

 弥平太は、釜倉村の庄屋、二宮七右衛門の娘を娶、藩の剣術指南番となった。宇和島藩誌に文化六年八月十三日、長弥平太工夫の楯蔭により相出候、火術御覧、とある事から、弥平太は剣術のみか、砲術等武芸十八般をマスターしていたものとみえる。

 また、弥平太には平助という悴が居て、これまた父の後を継ぎ武芸者となっている。彼は槍が得意とみえ、文化三年七月二十八日、長弥平太悴槍術修行罷越願済、同文化十一年八月十二日、薩州印可皆伝申受、同九月二日、平助の槍術演武を藩主が天覧している。目下、伊達博物館に平助秘蔵の槍術奥儀の一巻が展示されている。平助を跡目に立て、弥平太は晩年、笠置峠の麓、妻の里釜倉に余生をおくり、文政十一年七月二十二日に歿す。その墓は、笠置峠にあるという。

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「笠置峠」其ノ四

 布喜川に在住する稲葉定一氏から、晩年の弥平太に関する面白い逸話を聞いた。

 隠居の身となり、悠々自適の毎日を送る弥平太の元へ、村の青年達が剣術を教えてくれとせがんだ。弥平太先生曰く、「剣術の極意は、逃げるということが第一だ。その為には、足が速くてはならぬ。笠置峠までわしと競争し、お前達が勝てば剣術を教えよう」といい、峠まで若い者と駆ける事になった。先に走らされた青年達が、峠の中程を駆け上がっていると、弥平太が老人と思えぬ速さで、どんどん若者を追い越し登って来た。その走り方は、兎が飛び走るさまに似て、青年の一行が峠を折り返し弥平太の宅まで帰ると、先生は素知らぬ顔で菜園の垣を作っていたという。剣術の極意は逃げるということであると、青年達に説いた弥平太は、いかにも武道に到達した彼の心境を物語っているではないか。

 宇和島伊達博物館に展示されている、長平助の本心鏡智流馬上鎗絵図の巻は、嘉永二年六月吉日という年号が記されていて、馬に乗った鎧武者が槍を奮っている図が描かれている。しかし、やがて長親子が指揮した兵術の時代は終る。四年後即、嘉永六年六月、浦賀に黒船が来航し、日本は新しい時代を迎え、新しいタイプの兵法家、村田蔵六こと大村益次郎が笠置峠を越え、宇和島に登場するのである。

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「笠置峠」其ノ五

 笠置峠に奉安されている地蔵の顔は、削がれて目鼻がない。不思議な事に、台座の左右に転る古い二台の地蔵の顔もない。笠置地蔵は、顔なし地蔵である。そして、地蔵の背に二本のコウモリ傘が立てられている。これらの謎は、後に解ける。

 福島市相馬郡新地村二羽渡(わたり)に餡子(あんこ)地蔵という石の地蔵がある。この地蔵の由来は、二百年程前家山(かざん)という僧が巡錫の途次、この地が気に入り、奄を結び、自分の肖像に似て地蔵を造らせ奉つた。ところが地蔵の口元に餡を塗り、子供のカサコ(皮膚病)を祈願する者が後を断たず、地蔵のあんは乾く暇もない程であつたという。おそらく奉祈した和尚の家山の名が、カサコの瘡に転訛したものと伝えられる。

 東京都台東区上野の笠森稲荷は、全国的にも有名であるが、この稲荷の起源は、天正十二年、羽柴秀吉と徳川家康が長久手で戦つた時、家康は腫物に悩まされていた。すると、家臣の倉智甚左衛門が摂津国島上郡真上村の笠森稲荷に祈って、快癒し、戦勝をもたらした。同十八年、家康が江戸入りして谷中にこの笠森稲荷を勧請した。笠森が瘡守に語音が通じているからで、瘡稲荷と称し、吉原遊郭にも近いところから、皮膚病ばかりでなく性病を病む人々、特に花柳界の婦人達に信仰された。初め土の団子を供え祈願し、快癒する米の団子を供えるという習俗がある。宇都宮市中塙田町の瘡稲荷もやはり土の団子を供え、癒ると米の団子を供えると伝えられる。徳川家康梅毒説は、この笠森稲荷からによるものであろう。

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「笠置峠」其ノ六

 また、笠森稲荷といえば、神社前の水茶屋「鍵屋」の給仕女お仙の美貌が江戸で評判となり、その艶姿は鈴木春信をはじめ多くの浮世絵師が競って彩菅をふるったという笠森お仙の話は、あまりにも有名である。

 花柳流といえば、宇和の或庄屋が江戸見物に行き、話の種に吉原の遊郭へ行った話しがある。田舎物と花魁(おいらん)にみくびられぬ様、羽二重の襌をして遊郭の“ノレン”をくぐったという。

 笠置峠を越えた岩木の離れに旧街道の脇に、笠森様と呼ばれる三間四面の堂がある。正しくは瘡薬師で、本尊は薬師如来である。山田薬師と野田の蓮明寺の笠薬師とを宇和の三薬師と呼び、さらに山田薬師は、日本三大薬師に数えられる。四月八日の花まつりの縁日は、特に有名である。この薬師如来は、お薬師さまの愛称で昔から民衆に親しまれ、病気を除き不具をいやす仏とされている。

 子供の頃、頭に瘡蓋が出来、膿(うみ)の出る病気を、宇和地方ではガンカサといった。治っても小さなハゲとなって残る。俗にいう一銭ハゲである。このガン瘡祈願に里の母親達は、タツコロバチと呼ぶ田植の頃みのと共に使った笠を持ち、野田、岩木の笠薬師に願をかけたものである。笠置峠の地蔵に納めてあるコウモリ傘も、この笠、瘡にかけたものであろう。また、梅毒の事を瘡ともいう事から、昔花柳病の祈願に笠置地蔵の顔は削かれたものとみえる。

 幕末期、すでに八幡浜にも梅毒が入っていた。八代、八尺神社に保存されている。清家堅庭が書き残した「堅庭医梅」にそれを見る事が出来る。

 「堅庭医梅」とは、今でいう病院のカルテのようなもので患者の住所、氏名、年齢と病名、治療法が記されている。その中に、五反田村○○○房吉が梅毒に侵され、その病状を記し、製薬として亜片六厘、硝石一匁五分、甘?六厘、白糖などを混ぜ服用させている。また、大平村○○伝左衛門妻七十才が、梅瘡(梅毒)と肝臓硬をわずらい、井上三省という医者がこれを療していて、下痢、吐けで三日苦しみ死んでいることなどが記されている。

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「笠置峠」其ノ七

陽石

 幕末の八幡浜地方で発生した梅毒と関わりがあるのであろう大平には、大きな男性のシンボル陽石を奉った傘神がある。国道拡張の際、取り除かれたこの石は、現在萩森神社に移されている。

 話は峠道より外れてしまったが、八幡浜市誌では、清家堅庭は嘉永元年に長崎へ行き、中島広足につき歌道を学んだと紹介されているが、八尺神社宮司、清家清氏の話では、長崎へは西洋医学の研究も兼ねての旅であったという。事実、「堅庭医梅」にそれが裏付けされている。

 和蘭紀元千八百五十八年八月、我安政五年出島に於て、海軍二等医官ボムペフワンメールドルフラルトロ授官医員、良順松本茂筆記と書き出し当今流行「コレラ」は、亜羅比亜地方より起り来れる病にて……とあり、コレラ病の予防法を松本良順に教わっている。松本良順といえば、後に幕府典医頭となり、近藤勇をはじめ新撰組の隊士の健康診断を行ったり、伊東甲子太郎残党に撃たれた勇の鉄砲傷を治療した話は有名で、維新後、わが国初代軍医総監となった男である。

 このような事から、清家堅庭は医者としても一角をなしていた。吉村昭の小説「オランダお伊篤」では、八幡浜の高橋家に宿ったイネが、翌日笠置峠まで迎えに来た二宮敬作と再会したように描かれていたが、実は八代の八尺神社堅庭の邸を宿としたのである。現主清家清氏の話では、祇園橋のある神社の山根辺に馬屋があり、イネや敬作はその馬で笠置峠へ向かったのだという。イネや敬作が書いた物が神社に残されていたが、先年の火災で焼失してしまった。

 維新前夜、新しい文化と思想を伝える伊篤、二宮敬作、村田蔵六、高野長英、藤本鉄石など維新の立役者が続々と宇和島を目指して、笠置峠を往来する。坂本龍馬や吉村寅太郎が脱藩して、土佐より伊予に入った。九十九曲峠が維新の裏街道なら、笠置峠はまさしく維新の表街道といえる。

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「笠置峠」其ノ八

 千丈の石棟城跡に最後の城主であった出雲守近治、石見守近元、両兄弟供養の大五輪二基がある。

 石見守近元は、出雲守近武の二男で、天正六年九月八日逝。この系統は牛名、国木の庄官となる。兄出雲守近治は天六年九月十三日没し、その子は山城といい、またその子は左馬介と名乗った。この左馬介の代より、郷村近辺の惣庄屋を務めた。時に、慶長五年藤堂高虎の治世下、松葉町(卯之町)に三瀬六兵衛という名主頭がいた。彼は宇和、喜多両郡の惣庄屋を束ね、横目役も兼ね、藤堂二十万石を容易に取って代わる実力を持っていた。自惚とカサ気のない者はない、この三瀬六兵衛は中国の毛利氏へ秘に通じクーデターを計画、高虎を倒し伊予二十万石の領主になろうとした。しかしこの陰謀は事前に洩れ、一族殺害されるという大事件を引き起した。この事件に連座、郷村惣庄屋左馬介はその責をおい、長浜にて切腹した。

 そして、その子市介より弥左衛門、吉左衛門、吉蔵、弥七郎、又右衛門、二郎右衛門、覚右衛門と代々郷村だけの庄屋を務めた。

しかし、或る頃より、日土の庄屋藤家より平介なる者が新しい庄屋として郷村に入ってくる。爾来、庄屋兵藤家は明治まで続く、記録の上でこの庄屋交替期に約八十年の空白がみえる。

 この庄屋交替に関し、一つの説話がある。或る年、郷年に百姓一揆が起こり、責任上庄屋は、城下に呼び出された。「追って沙汰する」と役人より申し渡され、庄屋は沈痛な面持ちで城下を後に重い足を引きずり、運命の笠置峠にさしかかった。この峠で釜倉より登り来た顔見知りの他の村の庄屋に合い、意外な話を耳打ちされた。それは、今度の一揆はあなたを失脚させようと仕組まれたもので、すでに後の郷村庄屋役は決まっているのだというのである。「謀られたか!」愕然とする庄屋は、失意の余り腰の脇差しを払い、我腹にあてた。

 笠置峠で切腹して果てた悲劇の郷庄屋の墓は、笠置峠にあると伝えられる。兵頭家最後の庄官兵藤謙三氏は明治になり、千丈村初代村長となった。現在郷に旧庄官の墓と称されるかなり古い五輪塔がいくつも並ぶ墓地がある。その一基に「先庄官各亡霊」と刻んだものがあるが、これは明治二十七年千丈村村長、つまり最後の庄屋兵藤謙三氏が寄進したものである。

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「笠置峠」其ノ九

 庄屋交替で悲劇を生んだ郷村は、その後不思議と百姓一揆が起きている。

 文政二年二月四日、郷村百姓は年貢の事で一揆を起し、徒党を組み宇和島へ訴へ出んとし、笠置峠を越えたが、卯之町で役人に制止され、追い返される。更に三十七年後の安政三年正月四日にも、郷村百姓は一揆を越し、城下へ出訴せんとしたが、これも笠置峠を下りた坂戸村で役人に制止された。この時、川之内村の百姓も総出してその誤追い、五反田村まで出向き、ここで気勢をあげて引きあげた。再び三日後の正月七日、郷村百姓有志数人が秘に出訴せんとしたが、城戸で役人に阻止された。続いて川之内村百姓も、二月四日夜陰に乗じ再度出訴の拳に出たが、いずれも卯之町止まりで、郷村百姓達は宇和島城下に訴状をもち一歩もふみ込む事は叶わなかった。

 郷村庄屋の恨の血を吸った笠置峠。峠に籠るその怨念が、一揆を妨げたものであろうか。

 伊予一国を奪おうとして起つた、三瀬六兵衛の松葉町の反乱に始まる庄三百年の制度も、維新の夜明と共に解体される。明治三年、旧宇和島領内各地で蜂起した一連の百姓一揆のほこは先は庄屋に向けられた。かつて城下に訴え出るという一揆の手段ではなく、直接庄屋を襲撃するという農民の反乱と変わる。その火の手は、龍馬、吉村寅太郎がふみ越えた九十九曲峠の麓維新の街道奥野郷(城川町)川津南・古市より上る。

 古市は、伊予と土佐を結ぶ街道として古くから栄えた宿場町である。今も、古市龍見寺の不動明王の祭りは、近郷から多くの農民が集まり賑う。街道の両脇には鍬や鎌、種物を売る露天商が連なり、昔の市の名残りを留めている。

 明治三年三月、この国境の農民と庄屋との間には葛藤が生じ川津南、窪野、古市の百姓達が古市の姥ヶ藪という所に集まり蜂起した。

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「笠置峠」其ノ十

 三百年間の永きに亘り、虐げられた農民の不満は、大政奉還により天朝の御代に変わったという政権交替の虚を突き、堰を切ったように爆発した。古市不動の憤怒の面と化した農民、怒の炎は不動の火焔の猛炎に似てメラメラ燃え上がる。

 九十九曲峠の水分の峰より発す黒瀬川の流れに沿って糾合して下る農民の群は、腰に鎌を差し、鍬の杖に紙の幡幟をひるがえし、新政府野村民政局を目指した。雲の如く湧く農民の数は、一万五千人にもふくれ上がり怒濤の勢いとなり、野村に雪崩れ込み、緒方庄屋を取り囲んだ。世にいう野村騒動の起りである。

 この一揆は、さらに土屋峠を越えて三間地方に広がり、宮の下騒動を誘発し、やがて笠置峠を越八幡浜地方に飛火。「お庄屋征伐」とよばれる茅川騒動に到るのである。

 「双岩村誌」それを転写した八幡浜市誌の茅川騒動の項によると、横平の雛五郎という者が、三間奥へ行商に行つた帰り、この三間騒動の模様を見て帰り、村人に語つたのが、当地方騒動のの起こりと記している。

 布喜川に住む稲葉定一老人から、この雛五郎なる人物像や行商の商品等につき、断片的ではあるが庄屋征伐に関した実に貴重な話を聞く事ができた。このような記憶の確かな老人に逢う事は無情の喜びである。

 文政十年、布喜川村の摂津八郎が松山から、腰をかけ両手両足で作動さす新型機織、高機を導入した。こうしたことから、布喜川地方は織物発祥の地であろう。当時中津川、若山、釜倉、和泉、布喜川地方の農家では、農閑期になると「篠巻」という手紡糸の原料を、領内各地の農家に売り歩く行商の一行があった。これを買つた農家の主婦達は、内職でこの篠巻より木綿糸をより、糸車にかけ糸の束を作る。この糸を紺屋で染め上げてもらい、木綿生地を家庭で織るのである。今でも紺屋とよばれる古い家が処々にあるが、それはこのころのこうした商家の名残りである。

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「笠置峠」其ノ十一

 野村騒動の余波で、吉田藩山間部(現在の日吉村)の百姓に不穏な動きがあると、各村の庄屋より藩庁に急報。野村と隣接する川原淵組と呼ばれる農民は、続々と野村の一揆に加勢するため、大宿越の土屋峠を越え夜道を野村へと駆ける。農民のかざす松明の火は、えんえんと狐火か不知火のように妖しく揺らぎ、土屋峠を越えて行つた。遂にこの火が導火線となつて、吉田領一揆を引き起す。

 土佐国境は、日向谷を源とする広見川(北宇和郡広見町)に余波はうねりとなつてこの川筋を急流、川下へと波及する。吉田藩は、これを阻止せんと役人を派遣、各村々を内偵して指導ごぼうぬきに逮捕した。これがかえつて火に油をそそぐ結果となり、小倉村に集まった八百人の農民は鉄砲や竹槍で武装し、庄屋に襲撃をかけた。血を流し逃亡する庄屋、屋敷を破壊し倉を破つて、捕まえられていた農民を奪回し事態は容易ならぬ悪化の一途をたどつていた。藩庁に軍の出動をうながす伝令が、矢継ぎ早に飛びかう。吉田城下は時ならぬ板木が鳴り響き、老人婦女子を直ちに非難させ、小銃大砲隊が一揆鎮撫にくり出した。鉦を打ち鳴らし、ほら貝を吹き、鉄砲を放ち糾合する農民の数は次第にふくれ上がり、勢いを増していく。群は広見川と三間川の合流する出目に出て更に三間川を上つた。

 何としても一揆を宇和島、吉田の城下進撃はくい止めねばならぬ、藩は兵と農民の全面衝突を避け兵を後退、一揆の宮野下までの占拠を許した。一隊を追加して狭い道路を遮断しこれ以上の進出は武力で圧し、流血己む無しの備えを見せた。

 宮野下に屯集した農民の数は五千六百人に達し、三間平野を埋めつくした。三島神社を本陣とした一揆の指導者達は、役人に対して数ヶ条の要求書を提出し、談判することになった。この情景は、一揆というよりむしろ合戦に近かった。

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「笠置峠」其ノ十二

 横平の百姓、雛五郎、百太郎、忠兵衛の三人は、篠巻売りに三間地方に行き、この騒動に遭遇した。 

 三人はとても商売どころではなく、一揆見物と酒落こんだ。この雛五郎という人物は、今日でいえば、優秀なセールスマンで頓知頓才に長けた男であった。或る時、村の庄屋の供をして宇和島城下に赴いた事があった。街を歩く時、あまり度々庄屋と共に頭を下げなければいけないので、雛五郎は「庄屋さん、もう城下中這うて廻りましょうや。」といったという。

 行商もやり、地方を廻る事から彼は世間に明るかった。機敏な彼は、この戦(いくさ)農民の勝利と看た。百姓の時代が来たのだ!ご一新だ!世直しだ!一揆は雛五郎達の後を追うように、三間から歯長峠を越え破竹の勢いで宇和方面に広がっていく。上松葉、下松葉の農民が坂戸牛石の地に屯集して気勢を挙げる。狼火は山田、多田に上り暴動と化していき笠置峠を越え、遂に八幡浜地方青石郷に、その波が及ぶのである。

 笠置峠を馳け登り、村へ急ぎ帰る雛五郎一行は、峠に逢う人毎に三間で見聞した一揆の模様を身振り手振りで吹聴していった。

 明治三年五月四日、八幡浜八代王子森八尺神社宮司清家堅庭は、この年三月、五ヶ月間務めていた旧宇和島藩庁を退職していたが、この日ふと和霊神社に詣でようと思い立ち、籠で出立した。

 笠置峠を越えた籠は、宇和平野田園を進む。すると前方より狂ったように馬を責め馳け来る騎馬隊が五騎六騎、何事かと籠を脇に止め、道をあけ疾風のように馳け抜ける武士の一団を見送った。騎馬の一行は家老桜田亀六を始とする藩の重役方であった。家老一行、笠置峠の急斜を馬を追いその力を借りてすがり馳け登る。腰の刀は、山の斜面に当る為腹に回す。これを腹包丁と呼ぶ。息を切らして峠に辿り着いた家老一行、見下す旧矢野組村々のり百姓は、藻抜のから一人残らず茅川に集まり、庄屋征伐を叫び気勢をあげていた。維新の夜明けを告げるこの一揆は、かつて一村単位で訴え出る形式でなく、仕返すという報復の農民反乱で、領内津々浦々に至るまで吹き荒れ、藩政三百年の総決算ともいうべき未曾有の連合大一揆であった。

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