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高徳寺薬師堂縁起
井上安平(ヤスヘイ) 記
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謹んで按(アン)ずるに奈良朝の昔、聖武天皇の御代(ミヨ)に、稀代(キダイ)の高層行基上人(コウソウギョウキショウニン)、綸旨(リンジ)を奉じて南海の地に巡錫(ジュンシャク)を留め(トド)国家鎮護、庶民安泰を祈念(キネン)せんが為一宇を建立し、傍らに在りし樟(クス)の大樹を伐採して自ら刀(トウ)を振るい、香を焚(タ)きて一刀三礼、精魂を込めて薬師如来の尊像を彫刻し本尊として納め給ひ立王山高徳禅寺と号し、従僧の一人なる大成雅(タイセイガ)和尚をして開山たらしめ永住せしむ。 後(ノチ)師僧(シソウ)行基上人の地を離錫(リシャク)せらるるに臨(ノゾ)み、堂前に一株の柏樹を植えて後世の記念たらしめんと口伝(クデン)す。 爾来方光隆々(ジライホウコウリュウリュウ)として輝きを増し、賓客雲集(ヒンカクウンシュウ)して地方稀に見る霊殺(レイサツ)となりしが、人皇(ジンノウ)第百六代正親町(オウギマチ)天皇の天正五年(1577)六月、長曽我部元親の四国攻めに際し、江ノ川域の背面攻撃、夜襲に禍(ワザワ)いせられ、遂に兵火の厄(ヤク)に遭遇して、諸堂伽藍(ガラン)の大部を烏有(ウユウ)に帰(キ)せしめ、而(シコウ)して、城主井上備後守正明の討死と共に落城の悲運に陥(オチイ)り長曽我部は小早川隆景の衝撃(ショウゲキ)に利なく、地方は小早川氏の領に移りし頃、天正13年(1585)其の臣、持田右京をして復興を図らしめつつありしも、世上擾乱(ジョウラン)の折柄(オリカラ)とて其の意を得ず。 小早川氏亦豊臣秀吉の軍門に下り、天正15年(1587)、豊臣氏の命により戸田民部少輔(ショウユウ)勝隆城主となりて丸串城に入り、文録元年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮征伐の挙(キョ)あるや、勝隆、軍資に供する為、聖域の蒼々たる杉の大樹を切り尽くす。後、年と共に荒廃し、藤堂、富田、伊達等、領主の更迭(コウテツ)ある毎に、領域も順次縮少せられ、地方に誇りし巨刹(キョサツ)も遂に古(イニシエ)の面影を存(ソン)せず、狐狸(コリ)棲むに任せて、廃寺同様となり果てぬ。 而(シコウ)して、人皇(ジンコウ)第114代中御門帝(ナカミカドテイ)の正徳年間(1711〜1716)中興(チュウコウ)の僧、得道紅輝上座(トクドウコウキジョウザ)再建復興を企てしも功を見ずして、享保3年(1718)3月示寂(ジジャク)す。 宝暦11年(1761)、日土村、清水円右衛門、当村の庄官に任命来村に及び、当山(トウザン)の再興を発願(ホツガン)し、天明5年(1785)清水文蔵氏、撞木(シュモク)報謝((ホウシャ)供養を厳修し、境内に其の碑を建て、文化10年(1813)清水周平本堂を再建し、併せて納経塚一字一石塔(ノウキョウヅカイチジイッセキトウ)を築く。 越(コエ)て、天保年間(1830〜1844)西国(サイゴク)第25番播磨国御獄山青水寺の十一面観世音(カンゼオン)菩薩の分霊尊像を勧請(カンジョウ)し、ここに至りて面目梢(ヤヤ)備(ソナ)わりぬ。 明治維新以後、維持不能の為東林山禅興寺(トウリンザンゼンコウジ)に併合管轄したるも県庁の社寺台帳に記録を怠り脱漏(ダツロウ)の儘(ママ)なりしを、大正15年京都広隆寺より聖徳太子の分霊を、勧請(カンジョウ)奉祀(ホウシ)するに及び、未登録の堂宇に於いて法要式典を挙行し、或いは、一般民衆の参詣を誘致することは、現行法規に触れるため、新たに信徒総代を選任し、昭和2年6月16日付けを以て明細帳へ寺籍登録を出願し、当年9月30日付、脱漏編入の件許可せられ初めて禅興寺飛地境内堂宇として公認されたり。 因(チナミ)に聖僧行基離錫(リシャク)の記念として植付られしと口伝(クデン)する柏樹は枝葉繁茂(ショウハンモ)して往昔(オウセキ)の隆盛を偲ばしめ景木(ケイボク)として一段の光彩を添えつつあり。 去る大正7年愛媛県林産嘱託村上一氏の鑑定によれば、樹齢一千余歳を経たる全国有数の珍巨なる老柏なりと推賞され、其の保護の要(ヨウ)あるを力説されし以来、志有(ココロザシア)る人士(ジンシ)、相語らいて逐次保護に力を傾むくるに至りつつあるも、未(イマ)だ完(マッタ)きを得ず。 最近国鉄八幡浜線の若山通過の聲(コエ)と共に、この誇る可(ベ)き郷土の古刹(コサツ)を弘(ヒロ)く近郷近在に紹介せんものと遊園地の開設企図(キト)し、昭和10年境内の拡充、荒蕪地(コウブチ)の整理を行い一小公園(イチショウコウエン)としての実現を期し、昭和11年之が実行作業に着手、往古に遡(サカノボ)り上人が尊像彫刻の資料となし給いし大樟の伝説を偲ぶ思い出の意味に於いて命ずるに「薬師ヶ丘遊園地」の名を以てせしも、亦(マタ)、宣(ムベ)なる哉。 ここに開園奉告の法要を行い、謹んで縁起の一端を記す爾云(ジユウ)。 昭和11年7月21日 薬師ヶ丘遊園地世話係 |
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| 言葉のしおり 高徳寺・薬師堂縁起について | ||
| 語句 | ヨミガナ | 説明 |
| 按ずる | アンズル | 考えてみる |
| 稀代の高僧 | キダイノコウソウ | 世に稀な知徳の優れた僧 |
| 綸旨 | リンシ または リンジ | 天皇の命令(勅命)を受けて書いた文書 |
| 巡錫 | ジュンシャク | 僧侶が各地を巡回して教え導くこと |
| 国家鎮護 | コッカチンゴ | 仏法によって国家を鎮定し保護すること |
| 一宇 | イチウ | 宇は家のこと。一棟の家 |
| 一刀三礼 | イットウサンライ | 仏像をきざむのに一刀を入れるごとに三度礼拝する |
| 従僧 | ジュウソウ | 位の高い僧や住職に随従する僧 |
| 師僧 | シソウ | 師匠たる僧 |
| 離錫 | リシャク | 巡行の地から離れる |
| 爾来 | ジライ | それより後 |
| 放光隆々 | ホウコウリュウリュウ | 光を放ち勢いの盛んなこと |
| 賓客雲集 | ヒンカクウンシユウ | 参拝者が大変多いこと |
| 霊刹 | レイサツ | 霊験あらたかな寺 |
| 人皇 | ジンコウ、ジンノウ | 天皇(神代と神武天皇以後を区別していう語) |
| 兵火の厄 | ヘイカノヤク | 戦争による災い |
| 諸堂伽藍の大部 | ショドウガランノダイブ | 僧侶が仏道を修行する所。寺院の建築物の大部分 |
| 烏有 | ウユウ | まったくなくなったこと |
| 世上擾乱 | セジョウジョウラン | 世の中が乱れていること |
| 朝鮮征伐の挙あるや | チョウセンセイバツノキョアルヤ | 朝鮮征伐のくわだてがあること |
| 軍資に供する | グンシニキョウスル | 軍に使うための資材とするため |
| 領主の更迭 | リョウシュノコウテツ | お殿様がかわる |
| 巨刹 | キョサツ | 大きな寺 |
| 中興 | チュウコウ | いったん衰えたことを再び盛んにする |
| 示寂 | ジジャク | 高僧の死 |
| 発願 | ホツガン | 神仏に願い立てること |
| 撞木報謝供養 | シュモクホウシャ | 撞木は鐘をならす棒のこと。鐘をならしながら恩に報い徳を謝し、供養する |
| 納経塚一字一石塔 | 法華経を一つの石に一文字ずつかき、塚に納めた上に塔を建てた。(昭和7年7月建塔 清水保) | |
| 分霊尊像を勧請 | ブンレイソンゾウヲカンジョウ | 分霊をおまつりする |
| 奉祀 | ホウシ | 神仏、祖先などをおまつりする |
| 堂宇 | ドウウ | 殿堂、ここでは高徳禅師のこと |
| 禅興寺飛地境内堂宇 | ゼンコウジトビチケイダイドウウ | 禅興寺より離れた土地にあるお寺(禅興寺管轄) |
| 聖僧行基離錫 | セイソウギョウキリシャク | 知徳の高い僧である行基和尚がこの地を離れる |
| 往昔 | オウコ | すぎ去った昔 |
| 人士 | ジンシ | 教育や地位のある人、世間の人々 |
| 未だ完きを得ず | イマダマッタキヲエズ | まだできていない |
| 古刹 | コサツ | 古く由緒のある寺 |
| 荒蕪地 | コウブチ | 荒れ果てた土地 |
| 往古 | オウコ | 大昔 |
| 宣なる哉 | ムベナルカナ | もっともである |
| 縁起 | エンギ | 由来 |
| 爾云 | ジユウ | なんじが言う |
| 行基 | ギョウキ | 奈良時代の僧。俗姓は高志氏。和泉の人。諸国を巡遊し、池堤設置・寺院建立・道路開拓・架橋架設を行ったが、僧尼令に反するため禁止された。のち聖武天皇の帰依を受けて大仏造営にあずかり、大僧正位を受けられた(668〜749) |
| 大僧正 | ダイソウセイ | 僧綱の一。僧正の上位。745年行基が初めて任ぜられた。大納言に準ずる。現在客宗で最高の僧階の一とする。 |