地域文化の研究(郷土をみつめて)

「ふるさと双岩」

八幡浜市 森分 (すみれ) 主婦 64才

もくじ

はじめに

双岩村のはじまり

双岩八景とミニ伝説

変わりゆく双岩小学校

              唱歌とピアノ

              旧双岩小学校の思い出

井上平太郎さんのお手柄

金の茶釜

双岩音頭

中津川のお庄屋様

双岩にひびく広治さんの声

(おお)()(まつり)

お姫様の墓

きしゃ

おいしいみかん

ふれ合い

おわりに

 

 

応募にあたって

昭和五十八年ごろから、お年寄りと会う機会が多くなって自然昔のことが話題にのぼるようになった。

はじめに聞いたのは、金の茶釜のことだった。

「昔、庄屋のろうをとる職人が金の茶釜にお茶をわかしておったが、あれ、どうなっとるやろ。」と、この話を聞いたとき、

「えっ。金の茶釜。それ、どこに…………。」と、金と聞いただけで驚きであった。それは、金の茶釜とは、ピカッと光った金を想像したからだった。

「おどろき」と言うものは、次々と探求する基になるものだと痛感した。

それから、カメラと筆記用具を持って単車を走らせるようになったのである。

お年寄りは、私のような者でも歓待。とても感謝している。

今でも「○○のおじいちゃん」と仲良しになったので、その地区を通るときは、必ず、立ち寄ることにしている。

いつの時代でも、淋しいとされるところには、たぬきや、きつねや、大蛇や、大かになどが登場する。本当やら、うそやらと思われる話もあるが、伝説となるとおもしろいものである。それに、お年寄りは子供といっしょ。さも、本当らしく真剣に話されるのも、おもしろおかしいものである。また、聞き手も伝説の夢の国へ入る。共に自然に心が一つになるところに本当のおもしろさがあると思う。

昔の疑問が一つずつ解決するのもたのしみの一つだ。ピアノの値段がそれである。

わたしは千円と聞いたが、百円だったのだろうか。七、八年の迷いがやっと解けた。

このようなことで、古いことの研究に熱をあげる人のおもしろさも理解できた。

文章を書くことの苦手なわたしは、表現力が巧みでないため、人をひきつけるようなことは書けない。けれども、年令を増す毎に、伝言は正しく伝わらないので書き残しておくことの大切さを感じる。大正八年発行の双岩村誌のあることで、一層その考えを強くした。

古い古い双岩村誌であるが、七十四年間大切に保管されている、双岩郵便局長さんに敬服した。

まとまらず、ありのままの記述であるが、この機会に御指導いただければ幸いと思って応募した。

 

 

はじめに

「ふるさとは、遠きにありて思うこと」本当にふるさとを離れてみてふるさとの良さをしみじみと味わうことができる。

わたしが生まれ育った山村のふるさとは、どのような生い立ちで地域のみなさんを育み地域のみなさんが協力して「双岩村」という郷土を作り、郷土を愛し、心の通う村になったのであろうか。

先人の築いた尊い遺産をひもどき、少しでも多く掘り出して後世に語り継いでいくことが残されたわたしたちの道であると考えた。

ふるさとで生まれ育ったお年寄りは、本当に生きた証人であり、生き字引きである。日常の生活に追われて忘れがちなわたしは、先人の苦難の足跡を知ろうとお年寄りを訪ね、楽しい語り合いのうちに昔の様を一つ々々知ることができた。

また、特に驚いたのは、大正年代に取り組んでいた双岩村誌が、大正八年六月三十日に発行されて各家庭に一冊ずつ配布されていたとのことである。その貴重な資料を手にすることが出来たのも、こうした取り組みを手がけ、御協力をいただいた皆様のお陰であった。

この取り組みで心に残ったいくつかを親しみ文章で記述してみよう。

 

 

双岩村のはじまり

昔、昔、ずっと昔、(明治二十一年町村制がしかれた時)谷、釜倉、若山、中津川、横平、(しぎ)(やま)、布喜川、和泉の八地区を一まとめにして村名を決めることになったそうな。

さて、何村にすればよいだろうか。人々は、それぞれ考えました。

(あい)(おい)村」という村名にしたいと言ったのは釜倉の人達でした。そのころ、釜倉に相生の松といって笠のかっこうをした有名な松がありました。その松は、根本は一本だったそうですが、松の木は二またになっていて見上げるほど大きく茂って、山中に一きわ目立つ大松だったそうです。人々は、この松を笠松とよび、また、神様のお泊まりになる松、「神様のとまり木」と言ってとても大切にしていたそうな。

昔、昔、その昔、笠松の近くの「(ひがし)」という集落が火事になり、どこの家族も焼失して、たった一軒だけ焼け残ったことがあったそうな。火事場では、どの人もあわてて逃げまどっていたとき、ふと気がつくと子供が一人もいません。みんな驚いて探しまわったそうな。東の集落が火事になったころ、白いひげのおじさんが現われて、子供達をよびました。

「こっちへこうい、こっちへこうい。」

と言われるままに、白いひげのおじさんに誘われながら一歩一歩ついて行きました。全員集まったのは笠松の下だったそうな。子供を助けてくださったのは神様だったのです。

そんなことがあってから、とても有名な松になりました。

六十年位前までこの笠松は、うしろ山というところに繁っていたそうですが、今は、笠松の丸太だけが竹やぶの中に横倒しになっているということです。また、この笠松は、「神様のとまり木だから、さわった病気になる」と伝えられていたそうな。釜倉の井上義男さん(東京在住)は、うそだとばかり子供のころ、笠松にさわっさたところ原因のわからない病気にかかって長い間苦しんだという話をされました。

しかし、松の木は枯れるかもしれない、あの大きな夫婦岩ならいつまでもある。この二つの岩の名をとって「双岩村」としてはどうだろうか。と言ったのは、釜倉以外の七地区の人達の意見だったそうです。そこで「双岩村」と決まりました。それは、明治二十三年一月のことでした。

この夫婦岩は、故、三瀬一三氏の家から双岩村へ寄附されたのだそうです。また、昭和三十年二月一日双岩村も八幡浜市と合併したとき、夫婦岩のまわりに桜やもみじを植えて今の夫婦岩公園ができたのだといわれています。

かつて、この巨岩、夫岩の上に樹齢百年位のかっこいい松が生えており、景観を一層引き立て、県道を行く人の足を必ず止め、目を引いておりました。この松を眺めた人の中から誰言うことなく、

「夫婦岩の松が枯れたら、双岩村がなくなる。」

と言い伝えられ、双岩にとってそれほど大切なシンボルともなったのでした。ところが、その預言はは当たり、昭和二十九年秋の台風で松は倒れ、昭和三十年二月一日八幡浜市と合併し、双岩村も八幡浜市となりました。

今、若松が夫岩の頂上より少し下の北側に姿を現わし、「二世誕生」の喜びにわいています。それは、昭和五十五年頃、芽吹いたのではないかと思われる自生の松で、枝を天に伸ばし、岩肌に根をはって強く育ち、北風をいっぱいに受け、夏の焼けつく岩に耐えています。たくましく伸びてほしいと地元の人達ばかりでなく、八幡浜市民も年々大きくなる松を楽しみに見守っています。

この夫婦岩の左側には、大人二抱え以上もある大松がありました。根本は一本だったのですが、ふたまたになり、県道からは、二本に見えていました。

松食い虫がはびこった、昭和四十年後半に枯れてみんなを残念がらせました。今、春はたくさんの桜、秋は、紅葉と多くの人達を楽しませてくれています。この夫婦岩公園内には、昭和末期頃から、双岩実年会の主催で、夏は、ふれ合い広場が開かれ、実年会のアイデアのある設備、冷やしそうめん、焼き肉、いもだきと、車を止めて家族で、または、友人達との心の交流、楽しみの場所にもなっています。

昔は、夫婦岩のすぐそばの小道を通って八幡浜へ往来していたそうです。岩穴には狸がすんでいたと伝えられていました。また、夫婦岩の下の滝坪は奥が大変広くなっていて大蛇が住んでいたそうです。今は、五反田の保安寺の池の大蛇と共に、大島のの池に移り住んでいるとか。昔から淋しい所とされていましたのでそうした伝説が今に残っているのでしょう。

 

双岩八景とミニ伝説

昔、双岩村は、八地区でした。各地区の景色のよいところを一つずつとって「双岩八景」と名付けられていました。

 

(しぎ)(やま)の供養場は、双岩八景の一つです。

供養の夕照

昔、穴井と鴫山に悪病がはやり、多くの人がこの世を去り、後を継ぐ人さえもなくなったいえもあったそうです。特に、鴫山は、七0軒のうちの三軒だけが残ったといわれています。そこで、二つの地区の頂上にお地蔵様をまつってからは、穴井も鴫山も、だんだん豊かになっていったということです。

 ここは山のてっぺんですからきれいな海が見えて大変景色のよいところです。たくさんのみかん畑の向こうに、大島、佐島、黒島が浮かんでおり、真赤に沈む太陽は荘厳なまでの美しさです。

この近くに弘法大師の仏像があります。今は、自家用車で行くことができます。

 

○横平の一ノ宮神社は、双岩八景の一つです。

一ノ宮の秋月

一ノ宮神社から三瓶町の山並みが大変きれいに見えます。横平は大変高い所にあるので、一晩中お月見を楽しむことが出来るそうです。澄んだ夜、人々は、名月を見ながら、その神秘な美しさにしたっておられることでしょう。

 

○布喜川のドンダ池は、双岩八景の一つです。

富田の(らく)(がん)

元禄四年、富田信濃守(宇和島の殿様で、いろいろな土木工事に着手、住民のために尽された方、三机の掘り切りも始められたが完成しなかった。)が、布喜川の(あま)(ごい)(やま)の上の方に大きな池を作りました。この池を(とみ)()池と書いて(とん)()(いけ)、なまって、ドンダ池とよんでいます。昔は池の水を田んぼへひいて、神山地区の方まで、うるおいお百姓さんは、()んだと言うことですか、昭和五十七年、池の水を水田に利用した二戸を最後に使用しなくなりました。(注:池の水を利用して田を作る人1名あり現在は上水道として利用)また、昔は、大松をはじめ、うっそうと繁った森林の中で水をたたえていたドンダ池も、今は、立木もなく、大きな池に水を満々とみたし、その泉の強さを不思議にさえ思うのです。

庄屋、攝津氏の年代記より記述

  ドンダ池、元禄四年 富田信濃守開発

  池床      五反五畝

  土手の長さ   五丁五間

  高さ      三間七歩

  馬踏      一間半

  這樋      五間半

  埋樋      十三間

  水上畝数    三反一畝

  田地掛町数   五丁二反七畝歩

と記され、当時の様子を知ることができる。

この池のそばに竜王様をまつった(ほこら)があります。ドンダ池には昔から大蛇が住んでいたと伝えられていましたが、今は、大島の(おお)(にゅう)の池に行っているのではないかという話があります。

地域の方々が集まって春、竜王様のお祭りをしているそうです。また、昔から、小・中学生の遠足の目的地でもありました。今は、ドンダ池には、鯉をたくさんかっているそうです。

布喜川ダムを通って車で行くことができます。

 

○和泉のさざえがだきは、双岩八景の一つです。

さざえの()(はん)

その名のごとく、巨岩絶壁、昔、大津波が来たとき、この岩にさざえがくっついていたと言われています。さざえのくっついていた絶壁、これわ「さざえがだき」とよぶようになったのだそうです。さざえがだきの上からは、三瓶の海が見えます。早春には、うすい赤紫のかわいい岩つつじが咲き、大変景色のよい所です。さざえがだきの頂上に、双岩村のために精一杯尽し、尊敬された、故、井上平太郎氏の記念碑が建てられています。

この巨岩をくり抜いて、バスが通るようにしたいとの願いで努力した人も、故、井上平太郎氏でした。岩をくり抜いて出来たこのトンネルのお陰で、今は、朝夕通学バスで、子供達は、三瓶へ通っています。

こうした先人の尊い努力のあったことを、子供達にも伝えたいものです。

昔から、さざえがだきには、オサン狸が住んでいたと伝えられていました。この狸は、よく人を化かしたそうですが、戦争に行って日本の兵隊さんを助けたと言われるよい狸だったとも伝えられています。

四月のはじめ地域の人達が集まって、頂上にある権現様のお祭りをするそうです。

 

○中津川の(しら)(たか)(もり)は、双岩八景の一つです。((しら)(たか)(もり)を一名(おお)(くぼ)(さん)という。)

白嵩の暮雪

昔、大窪山にあった福楽寺(今は、宇和町河内にあり)は、有名なお寺で、お祭りの日には、老若男女でにぎわったといわれています。このお寺の上に、「おせりわり」といって通り抜けの出来る狭い岩穴があります。心の良い人だけ通り抜けができるとされ、悪人は小さくても通れないとされていました。そこを一生懸命通ったものでした。

今、林道の脇にお寺の跡があり、その上におせりわりも残っています。

夏は、緑いっぱいの大窪山、冬は、雪をかぶった大窪山、四季おりおりに表情を変え美しい姿を見せてくれる大窪山です。

中津川のお宮の紅葉が美しいので秋、もみじ狩りに来る人が大勢います。

 

○若山の禅興寺は、双岩八景の一つです。

禅興寺の(ばん)(しょう)

昭和五十三年五月に立派に建てかわり、落慶法要が行われました。春、お寺の庭にきれいな藤が咲いていました。

お寺から見た若山地区の眺めは最高です。

中心部の家並みが見渡され、その奥の一番高い三角の山が白嵩森、前の低い山が西光の山です。西光川のほたるが有名なので双岩音頭にもうたわれています。

昔、西光の奥に、こもり三平という狸がいたと伝えられています。こもり三平は、人にくっついて困るので、神主さんが狸を拂うお祈りをしていると

「わしは、こもり三平じゃが、よそから今もんてみると、オラア(狸)の住み家をあらしてしもうとるけん、オラアは、もう、ここにもどらんけんな。」

と、言ったそうです。それ以後、西光の奥に狸がいなくなったということです。

 

○釜倉の(かさ)()峠は、双岩八景の一つです。

(老松乱立、春風一路、宇和の沖田を見晴らす景色いと美し 双岩村誌)

笠置の()()

昔、宇和へ行く道がありました。この笠置峠は、遠方からでも目立つほどの大松が茂り、松、杉、桧などの森林におおわれ、また、山つつじの頃は特に美しく、山田薬師のお祭りの日には道せましと大勢の人でにぎわいました。秋、しば栗が色づく頃、寒さと共に山の紅葉が一段と色を染め、旅の人を楽しませてくれました。

笠置山の南側からは宇和盆地が眺められ、区画した田園に、れんげそう、菜の花と美しい造形模様を作り出し見事な春を楽しませてくれた景観も昔のことになりました。

笠置峠の大松は、元の双岩小学校からでも見えるほどの大きさでした。そのそばにお地蔵様が建っています。

約二百年ばかり昔の話です。

釜倉の()()(きち)(ぞう)が用事が出来て宇和へ行くことになったそうな。和家吉蔵がテクラテクラ歩いて笠置峠の大松のそばにさしかかったとき、ぼろ布に包んだものが落ちていたそうな。和家吉蔵は、なにげなく通り過ぎたそうな。

人通りの多いこの笠置峠では、この不思議な包みを見た人は、ほかにもあったそうな。ある人は、この包みが大蛇に見えたそうな。金の目玉が大きくピカピカ光っているのに驚き、走り去ったそうな。また、ある人は、大きな大きな人間位もあるようなむかでに見えたそうな。たくさんの足が全部金色に光っていたので、この怪物に襲われては大変だとばかり、力いっぱい走って通り過ぎたそうな。

和家吉蔵は、用事が終わって帰る途中、笠置峠の大松のそばにさしかかったとき、朝、見たところにぼろ布の包みがあるので、不思議に思って開いてみると、びっくり仰天、大判、小判がいっばい入っているので、おそるおそる持ち帰ったそうな。

どうしてわかったのか、暫くして落し主が和家吉蔵の家に現われた。それは、大どろぼうだったそうな。

和家吉蔵は、内心ビクビク振えていると、静かに落ち着いた口調で、

「このぜに(金)は、どうせ、おれにそなわっていなかったぜにだ。お前にやる。粗末に使うな。わかったか。」

と言うと、さっさと立ち去って行ったそうな。

この大金をたただでもらってはもったいないと考えた和家吉蔵は、笠置峠は、よく化けものや追いはぎが出て怖い峠だ。笠置峠にお地蔵様を建てて旅の人を守ってもらおうと考え、寛政六年三月(今から約二百年前)大金の落ちていた笠置峠にお地蔵様を建てたそうな。

それからは、旅の安全祈願、または、雨請のお地蔵様として恵みの雨をふらし、また、様々な病人を助けられたので参拝者が多かったそうな。

お地蔵様のお祭りの日には、露店が並び、草角力大会もあったので大勢の人々でにぎわったそうな。

和家吉蔵はお祭りの日には、お赤飯のおむすびを飯びつにいっぱい入れ、だるにお酒をたくさん用意して、みんなにごちそうされたそうな。

その頃の小判型の飯びつが二つの和家敬一(和家吉蔵の子孫)宅に残こされています。

 お地蔵様の南側は、昭和六十年十二月に林道がつき、大松の巨大な切り株は、朽ちたまま林道のそばに横倒しになっています。

ふるさとを愛する、わたし達、六十才以上の者がなつかしく昔を偲び、幼な友達と遠足に訪れた笠置峠は、あの日の思いに、また、伝説に心を開くだけの地名となりました。

昭和二十年六月二十日、鉄道が開通してからは、笠置峠を越える人がなくなりました。

 

○谷の田んぼのそばを流れ、谷川橋へ急に落下する谷川は、双岩八景の一つです。

たかぜ(高瀬)の(せい)(らん)

くねくね曲がった静かな流れが、十段余りの瀬と滝よりなる大岩小岩に水しぶきをまき散らして落下する様、春には新緑とうるおいを、夏には涼を、そして、秋には紅葉と共に安らぎを与えてくれる、この清い景観は、谷川橋の上流と下流合わせて二百メートルに及んでいます。

昔、ここは、かせくりぶちと呼ばれ、十数段を落ちる滝の音は、十幾人の乙女達が糸をまく、かせくりきをまわすように山々に響き、夜ともなれば「エンコ(このふちに住むきつね)がつべ抜く」と言われて背筋がぞっとするほど淋しく怖わいところとされていました。

今は、三瓶町へ行く広い県道が通じていますが景観に見入る人もめずらしくなりました。

 

変わりゆく双岩小学校(要点のみ)

明治七年九月                   若山小学校創立(双岩小学校のはじまり)

明治二十三年四月(一月に村名決定「双岩村」)

双岩尋常小学校と改稱(男五十五名 女十五名)

明治二十八年五月           双岩小学校新築移転

大正十年十一月十五日   双岩小学校増築落成

大正十四年十一月           ピアノ寄贈 父兄会より ピアノは千円也

昭和三年                           給食開始 若山地区以外の児童がご飯を持参、おかずだけの給食

昭和五年七月十三日       火災で校舎の一部損傷

昭和六年二月十日           橙色の屋根で美しい講堂落成式

昭和二十一年四月           新学制(六・三制)

双岩小学校と改稱  双岩中学校併設

昭和二十二年十月           全児童給食実施

昭和二十四年四月二十九日

双岩中学校新築落成式 移転

昭和三十年二月一日       八幡浜市に合併

八幡浜市立双岩小学校と改稱

昭和三十年個月二十日   ヤマハグランドピアノ購入 三十六万円也

昭和三十二年四月一日   みんなに惜しまれて退職、小使いの井上ナミ氏 勤続三十年

昭和三十三年七月十六日

各種遊具寄附 有志による (現在使用中)

昭和三十七年四月二十三日

この頃の給食費(二百九十円)

昭和三十七年十月七日   運動会に鼓笛行進初公開

昭和三十九年十一月十八日

創立九十周年記念式典を挙行

エレクトーン寄贈(有志)南予ではじめて

昭和四十年                       毎月誕生会を行う。

昭和四十二年一月十八日

二宮金次郎銅像再建除幕式 贈 三瀬晴雄

昭和四十九年十一月十日

創立百周年記念式典  校歌制定

昭和五十四年五月三日   校舎新築移転 九月二十四日 落成記念式

昭和五十七年七月二十六日

プール落成式

双岩小学校総工費は、約五億七千万円

昭和六十一年十月十四日

PTA臨時総会で標準服廃止

平成六年                           開校百二十周年となる。

 時代と共に変わりゆく姿は、学校の変遷をたどったり、昔のアルバム、今のアルバムとその様子を想像することが出来ます。

 

唱歌とピアノ

明治三十四年五月から、尋常科(六年まで)に歌を歌うことが取り入れられました。これを「唱歌」といいました。唱歌の勉強にと、大正十四年十一月に双岩小学校は、父兄会からピアノを寄贈されたのでした。主に、ピアノ購入の世話は、時の村長、井上平太郎氏でした。井上平太郎氏は、見たことも弾いたこともないし、この近所ではピアノの弾ける人もいない頃のことですから、大変苦労をされたそうです。直接、ヤマハピアノの会社を訪ずれ、購入の話し合いをされたのでした。

音楽の勉強に是非ピアノをと努力されたそのピアノは千円だったそうです。また、和泉分教場の立派なオルガンは百円だったと話されました。

「ピアノ開きには、三瓶の学校の男の先生にピアノの弾きぞめをしてもらいました。」

と当時を思い出しながら話されたのは、生前井上平太郎さんにお会いした時でした。

 当時ピアノのあるのは、この近所では双岩小学校だけというので、遠足の時、見学に来た小学生もあったと言うことです。

先人の苦労で、大勢の人に役立ったピアノは今、装いを新たにして、双岩公民館で、昔と今を見てくれています。

大正十四年といえば、千円で家が一軒建つ時代だったので、千円というピアノの価額に不信を抱く方がありましたので、平成五年十二月にヤマハピアノ株式会社に問い合わせをしましたところ、

「大正十五年の時点で、アップライトピアノは、六百五十円から、一千三百円、グランドピアノは、一千四百円から二千二百五十円となっており、昭和初期、地方都市で、一軒の庭付きの家屋と一台のピアノがほとんど同じで千円前後という記述があります。」との返事をいただき、当時のピアノの価額は一千円であったことが証明されました。

こうした高額な物の購入、それに賛同する父兄会、購入費の捻出など村民の心の底に流れる教育熱心なはからいのあったことに、ただ感謝です。

変わりゆく双岩小学校では、いろいろな面で地域の協力があって発展したことが伺えます。時代々々に対応しながら、現在のモダンな学校、そして設備、これこそ、子供達の幸せを願ってのあらわれです。

 

旧双岩小学校の思い出

南東の正門から見て、西側に一階、二階五教室ずつの校舎、その向こうに一、二年の教室と二階には広い裁縫室、つづきに工作室と一列に並び、北側は、だいだい色の屋根で美しい講堂、その前に大きく講堂をおおいかくさんばかりに広がったセンダンの木、東側は、生垣きの外が県道となっていました。

校門からパッと目に映る講堂とセンダンの木、春は若葉を日に日に増し、かわいい花をいっぱいつけた姿を見せていました。夏は緑いっぱいに茂ったセンダンの木の下で土とたわむれる大勢の児童を楽しませ、木陰で涼をとる子供達の会話を聞き合い、秋の運動会の放送席と児童の集会場所は決まってセンダンの木の下でした。冬は枯れ葉を落としたセンダンの木におうど色の実が鈴なりにつき、四季おりおりに装いを新たにしてくれたセンダンの木は、双岩小学校のシンボルでした。(今、双岩小学校で一部を保管)そのセンダンの木と後ろに見える美しい講堂、校門から見えるその風景を誰もが卒業までに数回となく絵に描きました。

こげ茶の太いセンダンの木、よく茂った緑の奥に見える橙色の屋根とガラス窓、この風景は今も明らかな印象として心に焼きついています。

昭和二十六年三月十六日、鉄道の騒音をさけるため、センダンの木の南側へ校舎を移転してからは、そのような風景が見られなくなりました。

今、春は、うぐいすのさえずりが聞かれる山のそばに新築移転し、近代的な学校で学ぶ子供達を幸せに思っていますが、学びの中に地域にふれてほしいものです。

 

井上平太郎さんのお手柄

昔、八つの地区のあった双岩村は、何を連絡するにも大変困るので、各地区へ電話を取りつけて用事を伝えるようにしたいとの願いで力を入れてくださったのは、井上平太郎氏でした。

広島市にある電話局へ行って「双岩村は、八つの地区があり、何を連絡するにも困っている。双岩村の八つの地区と、三つの学校に一台ずつ電話を取り付けてほしい」と頼まれたのですが、「日本には、そんなことをしたところはひとつもない」と言って何回頼んでも、断わられてしまったそうです。

一度言いはじめたら、絶対にやり抜くまでがんばる井上平太郎さんでしたから、今度はあきらめず、東京の電話局を訪れ、何回も何回もお願いしたところ、

「では、テストケースとして電話を取り付けてみよう。」

との許可が下がり、喜びを得られたのは、双岩村役場に電話が付いてから間もないころのようです。今から約七十年位前のことではないかと思われます。

八地区と三つの小学校への連絡が便利になり、みんなとても喜こんだと言うことです。

このような電話は日本でもはじめてだったと言われています。

この電話は、一度、双岩村の役場へかけ、電話を受けた役場の人が相手の電話へ取りつぐようになっていましたが、それでも随分助かったということです。

「よいことだ。これをやろう。」と一度決めたら、自分の意志を貫くまでやり通す、献身的な井上平太郎氏でしたから、みんなは「千枚通しの平太郎さん」と言ったそうです。

村長、学務委員など村政にも長く尽されました。また、国鉄を、三瓶まわりに誘致するために、東京へ何回出向かれたことか、それは実現を見ないままでした。

旅費は自費、手べんとうという出立ちで、双岩村のためにたくさんの良いことを残してくださった井上平太郎氏でした。当時の様子を知る人の中には、井上平太郎氏の、写真を見て手を合わせておられた姿、感動なしには見られない私でした。

井上平太郎氏の記念碑は、ざえがだきの上に建立されています。

 

金の茶釜

百年位昔、八幡浜市釜倉の都合の城の大きな大きな桜の木の根本に金の茶釜が埋まっているということを、宇和町岩木の人が三夜続けて夢に見たので「これは不思議な夢である神様のお告げだ」と言って、次の朝、都合の城へ行って掘ってみると本当に金の茶釜が出てきたので、大喜びで持ち帰ったということです。

この話を耳にした釜倉のお庄屋様は、この金の茶釜がほしくなって米一俵で買いとったのだといわれています。当時米一俵は、二円五十銭位だったそうです。

この金の茶釜には蓋がなかったので、八幡浜市若山の河野為一氏の父が作られたということです。為一氏は、「私は知らないけど、父は庄屋付きの()(かけ)()だったので」との話でした。その蓋には、釜倉の庄屋の家紋と庄屋のしるしがはっきりと記され、茶釜とはちがう鋳物でできています。

金の茶釜には、二か所欠けたところがありますが、堀り出すときに欠けたのではないかといわれています。一見、鉄の茶釜と何等変わらないこの茶釜は、大体四・五百年昔のものだといわれています。

「伝説」

 金の茶釜というのは、シャンシャンと湯のわく音の違いや、お湯の味が違うので、茶釜の底の部分に金をまぜて作ったのではないかと想像したものらしいということです。でも、金の茶釜のお湯は体によく、飲むと長生きするとかききました。

この金の茶釜は、元、庄屋の子孫、菅道郷氏が「代々家宝として引き継ぐべし」と金の茶釜の保管箱に記し、現在、菅道郷氏三女、上村美智子氏(八幡浜市高城在住)が保存されています。

 

双岩音頭

双岩音頭は、ずっと以前から盆踊りなどに踊られ、地域の人々に親しまれてきました。

この双岩音頭は、昭和二十一年双岩小学校に勤務されていた村上博先生(現在、松山市小坂二丁目在住)が、地元の歌がほしいとの青年団員等の要望で、作詞・作曲されました。村上先生のお母さんや、釜倉の和家先生が振付けられて学芸会に踊ったのが最初だそうです。はじめは、三番まででしたが、その後、地元の井上正司先生(八幡浜市若山在住)が、双岩の名所などを入れて、四番から十二番までを作詞され、現在も親しまれています。

村上博先生は、「多くの地域で作曲をして残してきたが、いつまでも引き継いでくださる双岩が忘れられない。」と話してくださったのも心に残っています。しかし、譜面がなかったので、歌いながら音符をさぐり、五線紙にのせ、村上博先生の御指導をいただいて楽譜にあらわすことができたのも私の一つの喜びであったことを今、思い出します。

     双岩音頭                  作詞作曲    村上 博

                                                      作詞(四〜十二)井上正司

一、      山の桜がパッと咲いて

月は夫婦の岩にふる

          楽し双岩 わがふるさと

          ソレ シャンシャン シャーン

          踊って またあした またあした

二、      山の紅葉がパッと散って

星がさざえのだきにふる

三、      鍬が畑でパッと光る

今日も仕事に精が出る

四、      赤い夕日が パッと沈む

ほたるすいすい 西光川

五、      さあさ行こ行こ パッと越えて

私も緑の 笠置山

六、      乙女かぶりが パッと開く

谷は 香りの 茶摘みどこ

七、      今日も落雁 パッと見えて

波も静かな (どん)()

八、      バスの煙が パッと丸く

紅葉まねくよ 中津川

九、      見たさ 会いたさ パッと見たさ

大元神社に 願かけた

十、      母の背中が パッと丸く

山の稲穂の 黄金波

十一、  かけた手拭い パッと白く

とれたみかんの 肌赤く

十二、    忘れられよか パッとあの娘

情厚くて  きりょうよし

 

中津川のお庄屋様  (八幡浜市中津川)

昔、中津川には、和家(さだ)(のり)というお庄屋様がありました。別の名を和家()(もん)()と呼んでいました。波門太はある年、京都見物をしていると、武士が短冊に和歌を書いて桜の枝につるしているのを見ました。波門太は、近づいてそれを読み、持っていた筆を取り出して自分も和歌を書いて桜の枝につるしました。すると、さっきの武士がも、その歌を読みながら、上手に作っているのに驚き、おこり出しました。

「こりゃあ、田舎の侍がこしゃくな。」

と言って刀を抜いて切りかかってきました。波門太はびっくりして一目散に逃げ帰ったということです。

それからも和歌の勉強を続け、数千首の和歌を作り本にしました。また、未生流の生花の名人だったとも言い伝えられています。

明治三十五年二月十七日、九十一才で世を去りました。その時こんな歌を読みました。

天津神 国津御神のおわすらん

  われは 今日より のぼりゆくなり

中津川の雲松寺の門のそばにある、和歌の名人波門太の石の像は弟子達が建てたものだそうです。

和家波門太の子、和家(てっ)(さい)は長崎で医学を学び、中津川で医者となり、たくさんの人達を助けて喜ばれた人です。

ある時、宇和(東宇和郡宇和町)の人が、

「馬にけられて腸がとび出している早く来てください。」

と、今ならタクシーか自家用車ですが、その頃は、はやかごが迎えに来たので行ってみると、腹がさけて腸がとび出していたそうです。

哲哉は、これは大変だとばかり、大急ぎで腸をおし込み、ぬい合わせて帰られたということです。間もなく、その人は元気になられたという話は、特に有名です。

そんなことがあってから、名医、哲哉先生の名は多くの人にしられるようになりました。

また、哲哉先生は、未生流の生花の大先生だったそうです。お弟子さんがたくさんあったということです。

昭和八年十二月十五日、九十二才でなくなりました。

和家哲哉の子、和家(わたる)は、道路の父として尊敬され人物です。

明治四十年、八幡浜から宇和へ通じる道路ができました。その道路から中津川のはいしまでの村道を作る仕事を請負ったのが、和家彌でした。この時代に道路を開くことは、大変な仕事であり苦労だったようです。土木工事費は、九千四百八十九円三十銭だったそうです。苦労に苦労を重ねがんばり抜いた和家彌は、「道路の父」とみんなから慕われたということです。

矢野酒屋の横の小さな橋は、和家彌の名をとって「(わたる)(ばし)」と名付けられています。そのそばに道路の記念碑が建っています。

こうして県道までの道ができ、中津川は便利になったのです。

道路の父、和家彌は、明治四十五年八月三十一日、三十七才の若さで、世を去りました。(中津川の庄屋の子孫は、八幡浜市在住であるが、元庄屋は別の方にゆずってあるため、昔の事を知る手がかりは家系図のみであった。)

 

双岩にひびく広治さんの声

「双岩村時報塔」と書かれたこのサイレンは、双岩村の一番高い山、八幡浜市若山の(あま)(つづみ)の峰にあります。

このサイレンは、昭和十三年九月、谷の二宮広治氏の寄贈によるものです。その頃、サイレンは五百円、サイレンを取り付けるための工事費も五百円だったときいています。山の上へ運んだ、セメント、砂、水などの材料の運搬や労力奉仕は、全部、双岩消防団の奉仕作業だったということです。

菅道郷村長に頼まれた、谷の井上助役が二宮広治氏宅を訪ずれ、サイレンの寄附をお願いされたが、その時は、よい返事はいただけなかったそうです。けれども、次の朝、双岩村役場へ五百円を持参されたということです。時報塔には、二宮広治寄附五百円と記されています。

子供のなかった広治は、みんなのためにと五百円の大金を出してサイレンを寄附されたのです。「ウ〜〜ッ。」というサイレンに耳をかたむけた人々は、「広さんがおらびよんなるぞ、昼飯にするか。」と言って二宮広治氏に感謝したといわれています。

このサイレンは、鉄のカバーが取れていますが、雨鼓の峰の三角点ゃ神様のすぐそばに建っています。

サイレンが出来てからこの山を誰言うことなくサイレン山とよぶようになりました。

今も時報を告げ知らせていますが、こうした話を知る人は少なくなりました。

時報塔には次のように記されていた

                            サイレン 五百円 二宮広治寄附

                            名稱   双岩村時報塔

                            労役奉仕 双岩消防団

                            日付   昭和十三年九月

                            位置   雨鼓の峰

 

(おお)()(まつり)

 八幡浜市若山の、岡野地から谷へ越えるところを(おお)()と呼んでいます。

昔、ここに一羽の青い鷺が住んでいました。青鷺は毎日々々、各地区の田んぼへ下りて行って、えさをとったり水をのんだりしていました。

ある時、(おお)()に倒れている青鷺をみつけた谷の人が、かわいそうに思って手当てをしてやりました。青鷺は、「ほうそう」という、大変おそろしい病気にかかっていたのでした。青鷺は手当ての甲斐もなくとうとう死んでしまいました。そこで、谷の人々は、大峠にお宮を建てて、青鷺をまつりました。

これを青鷺神社といいました。

ほうそうにかかったらほとんど死ぬるこわい病気です。青鷺神社のお祭りを大峠祭りといい、お祭りの日には、「ほうそうにかからないようにしてください。もし、かかっても白いほうそうにしてください。」とお願いする人が「老若男女数千人に及び」と双岩村誌に書かれているところをみても、そうとう多くの人がお参りに来たにちがいありません。

赤いほうそうにより、白いほうそうの方が少しはかるかったのだそうです。そこで、白いほうそうにしてくださいと言って白いお金を供えてお願いしたそうです。

白いお金とは、百円玉のような硬貨のことで、五銭、十銭、二十銭、五十銭が白いお金だったということです。

お祭りには、露店が並び、草角力大会もあったりして、大変にぎわったということです。

明治四十一年二月十日、神社(ごう)()に関する規定の発布により、明治四十二年四月八日、青鷺神社を一宮神社に合祀し、谷のお宮は、宮鷺神社とよぶようになりました。

 

お姫様の墓

「口碑による」

昔、京都のある公郷様のお姫様が癩病にかかられたので、うつろ船に乗せられて流されなさったそうである。そうして、陸地に着き上ろうとなさると、その辺の者が押し流し押し流しするので、どうしても、お上がりなさることができなかった。それで、とうとう白石浦(八幡浜市白石)に漂着されてお上がりになったが、ここでも多くの者から嫌われて追い拂われなさって、ついに(しぎ)(やま)に来て落ち着きなさることになった。鴫山では、これに同情して、小屋まで建てて、村養いにしたのでお姫様は非常に喜ばれて、この村には永久に癩病の者が出ないように守ってあげると言われたそうである。それから数年後六月二十八日に亡くなられたそうだ。

亡くなられるまでは、毎日法華経を石に書き写されたそうである。

双岩村誌より

姫をまつった姫塚には、次の表示がある。

「この塚は、間口百八十五センチメートル、奥行き百八十五センチメートル、高さ、百四十センチメートルの石積みの祠である。その材料は、白石海岸(川上町)から運んだ平らな青石である。一枚一枚に祈りを込めて、法華経が墨か朱で書かれておったが、今日は消えている。

昔、京都のある公郷様のお姫様が、癩病にかかられたために、うつろ船に乗せられて、流されて、白石浦に漂着されたが、土地の人々にきらわれて追い拂われついに鴫山にたどり着かれた。村人達は同情して小屋をたてて守り、村養いとしたが、数年後なくなられたので里人達が相談して、これらの青石を現地に運び、小さい塚を作り薄幸の姫塚の霊を慰めたもの。

 昭和六十二年三月 三瓶町教育委員会」

 

きしゃ

「お山の中ゆく汽車ぽっぽ」と歌を口ずさみたくなるような双岩村

「ポーッ。」と田舎の山々にこだまして汽車が通り出したのは、昭和二十年六月二十日のことでした。

山の谷間をぬって白い煙をはきはき息切れしそうなまでにのろのろ運転であっても、みんなとてもとても大喜びでした。

この鉄道は、七年間位かかってできたのです。その間、鉄道工事のため大勢の人が移住し、公会堂や、空家はみな工事の人に貸していました。また、小学校も多くの転入生があり、田舎の子供達にはよい刺激になりました。

日本語を知らないよその国(朝鮮)の人は、手まねで買物をしたり、買った大きな荷物を頭に乗せて歩いたりする姿に、当時の子供たちびっくりしたものでした。また、給食の時、おはしを持ってきた、外国の子供達は、物をはさんで食べることがむずかしくかわいそうに思ったこともありました。

双岩団地前には、鉄道工事事務所、双岩保育所の場所には鉄道官舎が幾棟も並んでいました。特に釜倉は、笠置トンネル工事のため大勢の人が移住し、近くの田んぼへ仮小屋を作って住んでいました。

毎日々々、カッチンカッチン、ダイナマイトを入れるための穴は人の手によって掘られ、ベルをならして注意を与えながら、ダイナマイトの爆発を待つ様子、そして、ボーンという音と共に岩がくだかれるそのような風景は下校時に見ることがたびたびありました。

こうして、厚さ寒さに耐え、大勢の努力の甲斐あって、終戦の少し前、軍需物資の輸送のため大急ぎでレールを敷き開通したのでした。

白い煙をはきはきいつもいっぱいのお客を運んでいましたが、やがて、ジーゼルカーに変わりました。そして、昭和六十一年三月三日から、双岩駅も無人化になりました。

ただ、双岩駅前に建っている鉄道記念碑だ。けが、いつまでも鉄道の様子を伝えてくれることでしょう。

 

おいしいみかん

緑に囲まれた山村、山合いに黄金の波うつ田んぼ、人々のふれ合いも睦まじい双岩も、終戦後農業を専業とする家庭が少なくなりました。今までいろいろな作物を植えていた畑は、ほとんどがみかん畑となり、おいしいみかん作りに精出すようになりました。

それは、昭和三十八年頃からはじまったようです。今では、双岩もみかんがたくさん生産されるようになりました。

昭和六十二年の生産高は、コンテナに

谷    約三万二千ケース

中津川  約三万ケース

若山   約二万七千ケース

釜倉   約一万二千ケース

この年、双岩にできたみかんは、十万一千ケース位で年々増産が期待されています。

 

ふれ合い

田舎の素朴な生活は、また、素朴な人柄を作りました。昭和二十三年から三十二年まで双岩小学校の職員だったわたしは、二十三年後、再度、双岩小学校に赴任、計、十七年六か月を双岩の地域で、共に学ぶことができました。

はじめのPTA会員は、老人クラブに、はじめの児童は、今度は、PTA会員と親子二代のふれ合いともあって親しみはひとしおでした。二代揃って心から御協力をいただき、楽しく思う存分働くことが出来たのは、何よりの感謝でした。

今、ふるさとで淋しいことは、おっちゃん、おばちゃんと呼びなれ親しんだ方々の姿が次々と少なくなったことです。

「あの子もこの子もみんなの子」と口に出しては言わぬまでも、みんなが子供達の幸せのために小さな親切をしてくださったのです。

戦時中(四年生)物資不足で、はきものがなく「明日は、ぞうりをはいて学校へ行こう。」と約束したことがありました。祖父の作った大きなぞうりをはいて友達をさそいに行くと、大きなぞうりをはいて友達をさそいに行くと、

「そのぞうり大きすぎるけん、これ、はいていけや」

と、そこのおじいさんの手作りのわらぞうりを、わたしにはかせてくださり、満足げに、登校する姿に見入っておられたおじいさんの顔も浮かびました。そのぞうりは、後ろのところに紺色の布があみ込んであったので、嬉しかったのをおぼえています。

ふるさとでは、上の世代、同世代、若い世代となつかしい人との出会いがあります。どの世代の人々とも、声をかけ合い、話し合える自分であるよう、前向きに学んでいきたいと努力している昨今です。

 

おわりに

大正八年発行の双岩村誌の中に強く心に印象づけられたのは

「悪風ないし、犯罪事実の極めて少なきは、確かに本村民の一大長所と云うべし」

との記述でした。

昔からの立派な行ないを継承して、あの子も、この子も、わたしたちも共に、明るく正しく心豊かな地域作りに励みたいものです。

また、このささやかな資料が何かの場に生かされることがあれば幸せに思います。

この資料収集に当たって、御協力いただいた方々に、心から感謝申し上げます。

 ふるさとは 心の宝

 ふれ合いは 心の支え

 助け合いは 人の道

 生かされていることを

 心にきざみ

    幸せを

     そして 感謝を

              森分菫

           平成六年一月三日

       参考資料  双岩村誌

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